―1979年から続く歩み―
1979年8月1日、佐賀県大和町の住宅地に、小さな水泳教室が誕生しました。
ようどう館の歴史は、1979年8月、大和町みどり団地に造られた10.5mの小さなプールから始まりました。
現在の佐賀校、大和校はいずれも25mプールです。しかし、最初から現在のような施設があったわけではありません。
一人の小学校教諭が水泳指導に携わり、やがて教員を辞め、自宅の庭にプールを造って子供達を教え始める。
そこから少しずつ歩みを重ね、佐賀校が生まれ、大和校が現在地へ移り、子供達が通い、その子供達が大人になり、今では自分の子供を連れてくるようになりました。
施設も時代も変わりました。
しかし、その歴史をたどっていくと、創立当初から現在までつながっているものも見えてきます。
1.創立者・古賀雄二と佐賀水泳研究会
ようどう館を創立したのは、古賀雄二です。
古賀雄二は小学校教諭として勤務するかたわら、佐賀水泳研究会(略称:佐賀水研)で水泳指導に携わっていました。
この佐賀水研での経験は、後のようどう館の指導にもつながっていきます。
泳げない子供を、どうすれば泳げるようにできるのか。
ただ手足を動かさせるのではなく、水に慣れ、力を抜き、浮くところから段階的に教えていく。
後にようどう館で長く続くことになる指導の基本には、古賀雄二が小学校や佐賀水研で子供達を教えてきた経験が生かされました。
その後、古賀雄二は小学校教諭を退職します。
そして、自ら水泳を教える場所をつくることになります。
2.1979年8月、10.5mプールからの出発
1979年(昭和54年)8月、古賀雄二は大和町みどり団地の自宅の庭に10.5mのミニプールを造り、水泳指導を始めました。
これが、ようどう館の創立です。
現在の25mプールと比べれば、ずいぶん小さなプールです。
しかし、ようどう館の原点となる指導は、この小さなプールですでに始まっていました。
後に「顔上げ足ピン」と呼ばれることになる、ビート板を持って力を抜いて浮く練習もその一つです。
現館長が第565号「顔上げ足ピン」を書く際、創立当初から指導に関わっていた富吉先生に確認したところ、この練習はみどり団地時代から行われていたことが分かりました。
水に慣れる。
力を抜く。
浮く。
そこから少しずつ泳ぎへ進んでいく。
現在まで受け継がれている指導の出発点が、すでに10.5mプールの中にあったのです。
3.1981年、佐賀校開校
創立から約2年後の1981年(昭和56年)5月、佐賀校が開校しました。
佐賀校には25mプールが造られました。
10.5mの小さなプールから始まったようどう館が、本格的な25mプールを持つことになった大きな節目です。
そして1983年(昭和58年)4月には、大和校もみどり団地から現在地へ移転し、25mプールとなりました。
これによって、
佐賀校と大和校。
現在まで続く2校の基本的な形が整いました。
創立から、わずか4年ほどの間の出来事です。
4.子供だった現館長が見ていた水泳指導
ようどう館の歴史を考えるうえで興味深いのは、現在の館長自身も、子供の頃から水泳の世界の中にいたことです。
その思い出の一つが、第278号「たこ焼」に書かれています。
現館長が子供の頃、佐賀水研で練習していた時代の話です。
現在のような屋内の温水プールではなく、屋外で練習することもありました。
寒い日もある。
雨が降る日もある。
そんな中で練習した後、先生達が子供達にたこ焼を一つ、二つと食べさせてくれることがあったそうです。
大人になって考えれば、ほんの小さなたこ焼です。
しかし、寒い中で泳いだ子供にとって、そのたこ焼は格別だったのでしょう。
現館長の記憶には、練習の内容だけでなく、その時の嬉しさまで残っています。
現在のようどう館は屋内プールです。同じ体験をそのまま再現することはできません。
しかし、この思い出が教えてくれるのは、水泳指導の記憶とは、泳ぎ方だけではないということです。
先生とのやり取り。
仲間と過ごした時間。
頑張った後に味わった嬉しさ。
そうしたものも含めて、子供の中に残っていきます。
厳しさだけでもなく、楽しさだけでもない。
子供の心に何が残るのか。
それを考える原点の一つが、現館長自身の子供時代にもありました。
5.創立当初から「泳ぐだけ」ではなかった
ようどう館が創立された目的は、単に泳げる子供を増やすことだけではありませんでした。
創立以来の「勉強の目的」は、
正しい泳ぎをおぼえます
礼儀正しい子供になります
強い身体の子供になります
です。
そして創立から5年ほどしか経っていない1984年3月のおたより第62号には、
「ようどう館はプラス+αを考える」
という文章が掲載されています。
水泳教室なのだから、子供を泳げるようにすることは当然です。
そのうえで、さらに何ができるのか。
初代館長は、挨拶や返事なども含め、プールを子供達にとっての学習の場として考えていました。
現館長は創立45周年を迎えた第552号で、第62号を改めて掲載しています。
約40年前の文章を読み返しながら、
「当初の頃から変わらずに歩んできたつもりです。だいぶ優しくなったとは言われますが‥。」
と記しています。
最後の一言はいかにも現館長らしいところですが(笑)、重要なのは、その前です。
時代に合わせて変わった部分はあっても、ようどう館が何のために子供達を教えているのかという根本は、創立初期から現在までつながっています。
6.1999年、初代館長から次の世代へ
1999年(平成11年)1月、初代館長の古賀雄二が亡くなりました。
その後、現在の館長がようどう館を引き継ぎます。
ここは、ようどう館の歴史における大きな転換点です。
創立者本人が子供達を教えていた時代から、その理念や指導方法を次の世代が受け継ぐ時代へ移ったからです。
もちろん、すべてをそのまま残せばよいわけではありません。
子供達も変わります。
通い始める年齢も変わります。
社会も変わります。
水泳を取り巻く環境も変わります。
その中で、
何を残すのか。
何を変えるのか。
という課題が生まれます。
これは後に、現館長が第453号「不易流行」や第530号「不変のものはいつも最先端」で繰り返し考えることになるテーマです。
ようどう館の歴史は、単に施設を残してきた歴史ではありません。
指導をどう受け継ぐかを考え続けてきた歴史でもあります。
7.「心と体を育てます」が生まれた頃
初代館長から現在の館長へ引き継がれていく時期の前後に、現在まで続く大切な言葉も生まれました。
心と体を育てます
というスローガンです。
第553号「心と体を育てます」によると、スタッフ全員からスローガンを募集し、50を超える案が集まりました。
その中から投票によって選ばれたのが、この言葉です。
2024年時点で約26年前から使用しているとされていますので、採用されたのは1998年頃と考えられます。正確な制定年月までは、この資料だけでは確定できません。
ここで注目したいのは、初代館長や現館長が一人で決めた言葉ではないことです。
スタッフみんなが案を出し、その中からスタッフ自身が選んだ。
そして、その言葉が四半世紀以上にわたって使われています。
第62号の「+α」。
初代館長の「水泳を通しての子供達の教育」。
創立以来の三つの目標。
それらの考えが、スタッフにも共有され、
心と体を育てます
という短い言葉になっていったと見ることができます。
8.40周年――OB・OGが開いてくれた祝賀会
2019年(令和元年)8月1日、ようどう館は創立40周年を迎えました。
第493号「祝!創立40周年」で、現館長は、40年の間に子供達も学校も大きく変わった一方で、変えてはいけない部分もあると振り返っています。
そして40周年には、現館長自身も予想していなかった出来事がありました。
ようどう館として大きな記念パーティーを計画していたわけではありません。
ところが、OB・OGが周囲に声を掛け、40周年のパーティーを開いてくれたのです。
第496号「いろいろ雑感」には、
「本館的には特段予定していなかったのですが、OB・OGが周囲に声を掛けて開催してくれたのです。」
とあります。
集まったのは20代から50代までの70名超。
県外から駆けつけてくれた人もいました。
10.5mの小さなプールから始まった水泳教室に、かつて通っていた子供達が何十年後かに集まり、創立40周年を祝ってくれた。
施設の大きさや会員数とは違う物差しで見た、40年間の積み重ねです。
現館長はこの時、
「創立50周年は大々的にやらなくては!」
と心に誓ったと書いています。
この言葉は、2029年の創立50周年へとつながっていきます。
9.水泳を取り巻く環境も変わった
ようどう館が40年以上歩んできた間に、佐賀の水泳環境も変化しました。
かつて佐賀市一帯には複数のスイミングスクールやプールがありました。
しかし、第500号「スイミング業界激変」では、長く営業してきたスイミングスクールの閉鎖や、周辺のプールが相次いで閉鎖する状況について、現館長が強い関心を寄せています。
また、学校のプールについても、老朽化や維持管理の問題、外部施設を利用する動きなど、水泳を学ぶ環境そのものが変化してきました。
こうした動きについては、それぞれのおたよりが書かれた当時の状況として見る必要があります。
しかし、現館長が一貫して気に掛けていることがあります。
それは、子供達が泳ぎを覚える機会が失われないかということです。
ようどう館自身の歴史だけでなく、周囲の環境が変わっていく中で、自分達が何を担うのか。
これも、長く続いてきたからこそ考えるようになった課題です。
10.一方で、水泳環境は大きく進化した
水泳を学べる場所が減っていく一方で、佐賀県には非常に恵まれた水泳環境も誕生しました。
その象徴の一つがSAGAアクアです。
現館長は第522号「SAGA アクア」で、新しい施設を初めて訪れた時の驚きを書いています。
水深を変えられる可動床。
波を抑えるための設備。
大型ビジョン。
トップレベルの大会にも対応できる施設を目の当たりにし、昔のプールとの違いを実感しました。
2002年の第285号「高速プール」でも、現館長はすでに、水深やコースロープ、側壁などによって波の影響を小さくする競技用プールについて書いていました。
一方、ようどう館のプールは、競泳記録を出すことを第一に設計されたプールではありません。
水泳を始める園児や小学生が、泳げるようになるための場所です。
プールにも、それぞれ目的があります。
設備は進歩しました。
しかし、設備がどれほど良くなっても、子供が初めて水に入り、力を抜いて浮き、少しずつ泳げるようになる過程そのものがなくなるわけではありません。
時代とともに変わる水泳環境と、変わらない指導の基本。
この対比は、第11章「不易流行」で改めて取り上げます。
11.45周年――原点を振り返る
2024年(令和6年)8月1日、ようどう館は創立45周年を迎えました。
第552号「創立45周年を迎えます」で現館長が振り返ったのは、華やかな出来事ばかりではありません。
水泳の基礎をしっかり教える。
挨拶や返事を教える。
プールを学習の場として考える。
そうした、創立当初から続けてきたことでした。
そして約40年前の第62号「ようどう館はプラス+αを考える」を再掲載しました。
45周年だから新しい理念を掲げたのではありません。
むしろ、
「最初の頃、自分達は何を大切にしていたのか」
を振り返ったのです。
長く続いた組織だからこそ、原点を確かめることには意味があります。
変わったものを数えるだけでなく、変わらず残っているものを確かめる。
ようどう館の歴史には、そうした振り返りが何度も登場します。
12.歴史は、建物だけに残るものではない
ようどう館の歴史を年表にすれば、
1979年8月 みどり団地で創立
1981年5月 佐賀校開校
1983年4月 大和校が現在地へ移転
1999年1月 初代館長逝去、次の世代へ
2019年8月 創立40周年
2024年8月 創立45周年
と並べることができます。
しかし、ようどう館の歴史は、この年月だけではありません。
みどり団地時代から続いている「顔上げ足ピン」があります。
初代館長から受け継がれた言葉があります。
長年一緒に指導してきた先生達がいます。
寒い日の練習後に食べた、たこ焼の思い出があります。
かつて子供として通ったOB・OGがいます。
その人達が大人になり、40周年を祝うために集まりました。
そして今では、自分の子供をようどう館へ連れてくる人もいます。
歴史とは、建物や年数だけではなく、人から人へ受け継がれていくものでもあります。
10.5mの小さなプールで始まった指導が、世代を越えて現在まで続いている。
そこに、ようどう館の歴史の大きな意味があります。
この章のまとめ
ようどう館は、1979年8月、初代館長・古賀雄二が大和町みどり団地の自宅の庭に造った10.5mプールから始まりました。
1981年5月には佐賀校、1983年4月には現在地の大和校が開かれ、現在につながる2校の形が整いました。
その一方で、創立当初から大切にしてきたものもあります。
水に慣れ、脱力して浮くところから始める指導。
「正しい泳ぎ」「礼儀正しい子供」「強い身体」という三つの目標。
「プラス+α」を考えること。
そして「水泳を通しての子供達の教育」という理念。
1998年頃には、その考えを受け継ぐ「心と体を育てます」というスローガンが、スタッフ50余りの案から投票で選ばれました。
2019年の40周年には、OB・OGが自ら声を掛け合い、70名を超える人達が集まりました。
2024年には創立45周年。
そして、2029年には創立50周年を迎えます。
施設は変わりました。
子供達を取り巻く環境も変わりました。
教え方にも工夫を重ねてきました。
それでも、10.5mのプールから始まった**「子供達を泳げるようにし、水泳を通して育てる」**という歩みは、現在まで続いています。
その歴史の中で受け継いできたものと、時代に合わせて変えてきたもの。
それが何なのかを考えることは、ようどう館のこれからを考えることでもあります。
